すき家のねぎ玉牛丼をあまり食べなくなった理由
20代のころ、生まれて初めて渋谷ですき家に入った。
当時は牛丼は松屋か吉野家しか許していなかったし、すき家もそれほどまだ多くなかった。
渋谷にいたのだから探せば吉野家も松屋もあったはずなのに、なぜその時わざわざすき家を選んだのか覚えていないが、メニューをみて「ねぎ玉牛丼」なるものを見つけてすぐに選択した。これは食べる前から美味いに決まっていると直感的に信じた。
今でこそ吉野家、松屋にも類似するメニューがあるが、当時は画期的だった。
一口食べたときに誰かと握手したくなった。心の中でガッツポーズもした。
それ以来は私はしばらく長い間、すき家しか行かなくなった。ねぎ玉牛丼しか食べなくなった。かなり長い間だった。
結婚式場に向かう際もすき家のねぎ玉牛丼を食べた。
息子が生まれて、病院から一人深夜に帰宅する際もすき家のねぎ玉牛丼を食べた。
3.11の日は自宅に帰れなくなり、すき家の食べラーメンマ牛丼を食べた。その時はそっちにハマっていた。
いったいこれまで何杯食べてきたのかわからないすき屋のねぎ玉牛丼だが、ずいぶん選ばなくなった。
昨日、久しぶりに職場近くのすき家に入り、普通の牛丼でもなく、うな牛でもなく、ねぎ玉牛丼の大盛りを食べた。
相変わらず美味しかった。何の不満もなかった。
しかし、なぜだろう?
また今度同じものを注文するかといえば自信がない。
松屋の牛丼あたまの大盛りと卵を食べたいかもしれない。
吉野家にっても同じような気がする。
一つの理由として、ねぎ玉牛丼を食べる時に私は紅しょうがを使わない。ということ。
これはずっと昔からそうだ。なんか合わないと思ってしまったのだ、最初から。
食わず嫌いでもあったので、一度試してみたがやはりしっくりこなかった。味が引き立たないと感じたのだ。
好みは人それぞれで当然だが、私はねぎ玉牛丼に紅しょうがは絶対に入れない派だ。
そしてノーマルの牛丼に紅しょうががないのはとても許せない。
私はきっと紅しょうがを食べたいのだと思う。
牛丼が食べたい時に、同時に紅しょうがも欲しているのだと思う。
だから、どうしても紅しょうがと合わないねぎ玉牛丼を遠ざけてしまうようになったのだろう。
いや、それなら最初からそうじゃないのか?牛丼に紅しょうがを合わせるようになったのは最近のことではない。13歳からずっとそこそこ多めに入れて食べ続けた。
きっとあの渋谷でのいっときは、自分が紅しょうがを欲していることに気づく前だったから目新しいねぎ玉牛丼に食いつき、そのおかげで紅しょうがが遠ざかるということに鈍感だったのだと思う。
私はきっとねぎ玉牛丼に浮気していたのだと思う。
そして目が覚めて元さやに収まったのだと思う。
元さやとの関係性は良好だったのだが、昨日はなぜかまた浮気相手を呼び出してしまって関係を持った。そこに退屈は感じられなかったにしろ、当初のような刺激的な関係も認められなかったということだ。
答えはやはりノーマルの牛丼あたまの大盛りに卵、紅しょうが、七味ということになる。
それが私の人生の伴侶となることだろう。
あの渋谷での一夜を超えるような出会いが今後牛丼業界から巻き起こるのだろうか?
ラーメンで言えば家系のような、私を「これさえあれば後はいらない」と思わせるような一品が生まれるのだろうか?
自分で編み出すことはできない。ずっとそれでいいと思えるものなんて創り出すことはできないのだから。
家系牛丼。なんのことだかわからない。