ただ二年間書くブログ

仕事あり、妻子あり、一戸建てローンあり、車もあるが裕福かと言われたらそうでもない。不自由だが幸せである、そんな気持ちを表せたら。そして自分らしさって一体どういうことなのか?どうでもいいけど真剣に、二年間毎日書くことが最大の目的であるブログ

自分次第で人と良好のコミュニケーションを。

人と気持ちよくコミュニケーションするのは自分次第であり、それができればそのあと一人になっても気分が良いが、それができないと一人になっても気分が悪いまま悶々と過ごしてしまう話。

 

 

10年以上利用している公共機関に用事があった。駐車スペースが2台あり、開館前に行かないと埋まってしまう。

私は20分前に到着して駐車し、入口に並んで開館を待った。この時、開き始めた文庫本を楽しむ余裕や、昨日の睡眠が良かったことなどで精神的に優雅だった。「並んで待つ」ことを楽しめていた。

 

30代の男性から「〇〇のナンバーの車のかたいますか?」と声が聞こえてきたので、文庫本を閉じて「私ですが」と名乗り出た。

相手の男性は「もう少し車を詰めて下さい」となかなか有無も言わさぬ感じで発信されたので、徒歩数秒の現場に移動した。

私は自分の車を1メートルほど動かせばだからであろうスペースに彼が駐車しようとしているのだな、と理解してその旨を「ここに入れようとしてるんですか?」と尋ねたところ彼からは「ここ三台なんで」と返事があった。へー、と思って車を移動させると、彼の車も何とか駐車できたようだ。今度は私の車を出す際には彼に移動を願うことになる状態だ。

 

駐車場には枠線や車止めなどもなく、ただの空き地のような感じなので、確かにこれまで2台分と認識していたのは私の思い込みでもあった。言われた通り従い、公共機関が開館したので受付をし呼ばれるのをまた読書して待つ時間になった。

 

ここで私は先ほどまでの優雅な精神状態を失っていることに気づく。

さっきの彼との一連のやり取りが、苛立ちを生み出している。

何故だろうか?自分に非があったことを認めたくないのだろうか?「三台」ということに本当か?と疑念を抱いているのか?確かに10年以上利用してて、初めてのことだ。

職員に確認しようかとも思ったが、もし二台だとわかったら私は彼に何か言うのだろうか?

私が逆の立場なら、自分に非がなかったとしても「ここ三台なんで」という言い方はしないだろうと思う。人に動いてもらったらエクスキューズや感謝の意を伝えるだろう。

それがなかったことが一番の原因なのだろう。

 

私の用事が終わって帰る時間になる。彼に車を動かしてもらわないと私の車を出すことはできない。仕方なく彼の元へ行き「車出したいので動かしてもらっていいですか?」と声をかけた。ここで彼の態度が面倒臭いという感じが全面に出ていた場合は、私の気分も最悪なものになってしまうのだが、幸い「あ、はい」という感じですぐに立ち上がって動いてくれた。

一緒に駐車場に行く時に私は「10年以上利用してたけど、三台停められることを初めて知りました」と声をかけた。

すると彼は「絶対二台分のスペースですよね、自分もはじめはびっくりしたんですよ」と笑顔で返してきた。

「仕切り線や車止めもないし、利用者同士でうまくやってくれって感じですかね」

「他の場所に停めてる人もいましたよ」

「あ、前に自分もそっち停めたことありました」

「じゃあ先に出しますね」

と会話のキャッチボールがテンポよく続いた。

 

無事に車を出して帰路に着いたころ、私の心はとても晴れやかなものになっていた。

 

人とのコミュニケーションは相手に委ねるのでなく、自分次第ということを再確認した。

相手に何か求めるのであれば、まずは自分からなのである。

もし私がその時、駐車場まで無言を貫き、そのまま帰路に着いていたら違った気分で午後を迎えることになったはずだと思う。

あえて自分から仕掛けたことで良いコミュニケーションが生まれた。お互いに気持ちが良く別れることになった。もちろん相手も努力してくれたかもしれない。

 

今日の自分を褒めたいと思う。

わかっているけどいつもできないことなのだ。

 

だから人生って難しいと感じています。

シンプルな答えが見つかっているのに、実行できない毎日が続く。

たまにできたら大喜びだ。

 

そんな感じだ。